ミ- z -ミ_。
Book of the miracles
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たすけてあげる
たすけてあげる

そういって手を差し伸べてくれた
 そのことには感謝

だけど
 本当に助けを求めると
 「人間性に問題あるからこうなる」
 といわれた。真実だった。
 私は自分を制裁した。

たすけてあげたい

そういって礎になるといってくれた
 そのことにも感謝

だけど
 本当に助けを求めると
 私はその人が思っていたような猫ではなく
 化け猫だった。
 私は自分を制裁した。
 
助けてくれるといった人はみんな本当には助けてくれなかった。
何で助けるっていったんだろう。
少なくとも助けることが目的ではなかったんだ。
それは私の体が証明している。
その中に住む、吹飛びそうな心も。

自分も自分の体も自分の命もどうしていいかからないくらいにもてあましている時に「たすけてあげる」といわれるのは非常にぐらつく言葉だ。

頼っちゃ悪い
頼って捨てられたらどうしよう
それでもどうしようもなくなって
本当に頼るとこうだった。

助けてくれるって言う言葉を 言う方が悪い?
本当は助けてくれない人だと見抜けないほうが悪い?
いちいちそんなことで傷つく自分が悪い?
助けてくれなかったなと責める?
責めても もっときついことを言われるだけなら
自分を制裁するのが手っ取り早い

そもそも私はどう助けて欲しかったんだろう。

手。それだけだったと思う。手、そしてささやかに分かち合える時間。
一人じゃないよという言葉。

墜落ではなかった。

頼るって、目隠しで誰かのリードで平均台を進む見たいなものかもしれない。
落ちたら命を失うというのに、目を開けないで歩こうとしていたんだ。

そして私の命は、「約束」でできてるから。
生きてることは約束

また話したいな
召喚したよ
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テーマ:みんなに知って貰いたい事 - ジャンル:日記

Ancient Kingdom
カウンセリングで言われたことは前記事の通り。
では、私はどう反応していたか?
その日はとにかく大きい事件のあとだったのと、そこに至る経緯となる重要なファクターについて、前回のカウンセリングで話していなかったために話す事がありすぎて普通30分なのに2時間もいた。
話す力がなかったのも原因だろう。話せば話す程わきあがる後悔と自己嫌悪。体験を話すことは再度それを体験すること。つらい体験を話せばつらいし、みじめな体験を話せば惨め差が身にしみる。
新たな発見があることもある。
そうなったのは全て自分の愚かしさのせいだと。
はたまた、相手の言ってたことの矛盾を発見したり、よくわからなかったけどこういう意味だったのか!(大体悪い方の意味)と気が付いたり。
それらにその時気が付かなかった自分の機転の利かなさを責め始めるばかりでやはりいいことはない。

すっかり落ち込んで話す気力もなくなった私に、今度は先生が畳かけるように話しだす。

「それは、相手にみせるためだったんですか?」
カウンセリングでの質問は、時々、思いもかけないものがあって即答できない。
もちろんそれが狙いの質問だ。私が自分でもわかっていない心の動きを解き明かすのが目的だ。
「どうなん。。。ですかね。自分でぼんやり覚えているのは、こうなったことは自分が勘違いしていたのが原因だから自分を罰するんだって言ってたかな。。」

そして、相手がなにをしたとしても、それを自分へのメッセージと受け取らないこと、ひどいことをされてもひどいことにふさわしい人間だから、憎たらしいから、バカにしてるから、どうでもいいから、傷つけてやりたいからこうしているんだと思わないこと。と言われていた時。

でも、無視は、きついよね。。。
と思ってた。無視は。。。ある意味メッセージなんじゃないだろうか。
どうでもよかったら適当にあいづちを打っとけばいい
ほんとに接触が嫌なら、電話を着信拒否にするとかいろいろ方法はある。
こちらからの接触はぜんぶそのままうけながし、自分からは接触しないのが無視だ。

無視されて死ぬ中高生の気持ちがわかる。この年になってわかりたくなかったけど。
まあ中高生の場合、こちらからの接触も、あからさまな侮蔑とともに拒絶するのだろうけども。

そんなことを考えていると先生が熱く語っている言葉の大半が零れ落ちていく。理解しようというより、言葉を拾おうとするのが精いっぱい。
だけどのその瞬間はすくなくとも、 つらかったことを考えない方向に脳が使われているので、きっとそれでいいんだと思う。

そして、自分と切り離して、自分を罰する自分にならないで、といわれたけど、なかなかわからない。
前回も「もっと自分を大事に」っていわれて、どうすればいいんですかね?と聞いてしまった。

「それでーわたし、ほんとはイロイロ計画を立てて、ダイエットするぞとか、資格取るぞーとか、。。前向きに頑張ろうと思ってたんですけど、全然達成できてなくて。。」
「でもね、資格や勉強もいいですけど、それもたとえば思い通りに進まなければこれじゃだめだとなるわけでしょ?何かを達成できないとしても、ぐうたらになってしまったとしても、つかれていたらいいじゃないとか、何かをしないとだめだ、っていうところから離れて自分をいたわってあげられませんか?」

またもやぽかんとしてしまった。え、そんなぐうたらな自分いやだ。いつもそうで、いつも嫌なのに。
どうしたらそんな自分でもOKサインが出せるんだろう?
太古の昔から、ぐうたらは悪だったはずだ。なのに無理してるくらいぐうたらする自分がいる。
自分はダメなやつだ、と自分に見せびらかすかのように。
こんな踊りを繰り返してきた私というダメダメ王国を、これから変えることができるのだろうか。?

終わった後、途中で延長になりますけどいいですか、と言われ時にうんと言っておきながら私は持ち合わせがなかった。
先生ほんとにすみません。
次回もっていきます(平身低頭)

夕暮れの街に出たら目の前が銀行だった。
天気予報を信じすぎて寒い。風は冷たくなっていた。
カウンセリング後は頭の動きがいつもと違って、変な感じだ。
繁華街を歩いても、誰とも違って浮いて感じる。地上2㎝を落っこちないようにスタスタ。
前回ここを歩いたことを思い出したり。

前回は一人じゃなかったのに、
だけど頼ろうと思っていた人がいたけど、連絡するのがためらわれた。
ほんとは嫌われてるんじゃないか。。っていう思いがわいた。
勝手な推測だとは分かっていたけど、それだけじゃない、なにか。
「もったいない」っていう言葉。

そんなことで使いつぶしちゃもったいない

友情を雑巾にして汚いものをふいちゃだめだ。

まよいながら歩いていくと駅ビルの入り口だった。
昔ここでバイトしてた。学生時代。洋服屋で。何も知らない娘っこにみんな、呆れたりからかったりしながら色々教えてくれた。
その頃は船橋駅を挟んで専門店街とデパートだったのに、今はデパートって大体が専門店街なので、どちらも東部デパートを名乗っていた。
「屋上ガーデン」というのがあるらしい。いってみた。
JRと東武電鉄2つの船橋駅をまたぐ駅ビルの、屋上を全て人工芝を敷き詰めて開放してあった。
駆け回るちびっこたち。勉強するJK。陰でクスクスする若いカップル。
船橋駅の頭上だから全方位が見える。いつも見る景色を空から見てる。あれがヨーカドー。こっちのマンションは昔はなかった。そして初夏に向かう季節の春風。

少し煮えたままの脳を抱えて、船橋東武以東では入手できないハラダのラスクを買って帰った。喜ぶ顔を思い浮かべながら。

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いじわるな鏡
この半年余りの筋トレとダイエットが効いてだいぶ体が引き締まってきた。
以前はガラス戸や鏡に自分がうつると不思議だった。
自分の自己イメージと、実際の姿があまりに違うからだ。
それはほとんどコメディだった。

体重2Kgちょいの未熟児でうまれ、それ以降成人するまで、常に「背が高くて細い人」というのが周囲の(自分自身も含め)私に対する印象だったはずだ。

太ってからというもの、服屋でつるしてある服を試着してみると、想像と全く違う服になっていて、唖然として脱ぎ捨てたこともある。デザインの元として想定している体型と違いすぎたのだ。

ダイエットが軌道に乗ってくると、鏡を見てぎょっとすることが減った。
それどころか、喜ぶことが増えた。
あ!こんなに薄くなった!くびれが出来てきた!
お?足もだいぶ細くなったなーw

だけどいじわるな鏡がある。

それは毎日通う職場のビルの入り口のガラス戸だ。
自動ドアじゃないので、そばに行くまでずっとそこにいて
「君の足はまだまだ太くて醜いね」
とあざ嗤うのだった。

だから
私のダイエットの目標はその鏡に映った時でも、合格印が出せること、9号のスーツがきれることだった。

でも
鏡は笑ったりするだろうか?
実はそんなわけはない。
いじわるなのは自分。
自分を常に監視して、ここやあそこが全然だと、ダメだししては自分いじめ。

土曜日のカウンセリングで言われたのもまさにそれだった。

他人の行為は自分へのメッセージではない。
例え誰かが自分にひどいことをしても、その行為の理由は私が…例えば、殴られたのだとしたら殴られるに相応しい人間だから、ではなく、相手の側に殴る理由があってしている。
無視だったら、無視したいのは相手にとってそうせざるを得ない、多分相当な葛藤の産物であろうこと…
だから、私は、その無視によって透明化されたと感じなくてよい。無価値観に苦しまなくてよい。

相手の目的はそれではない、そもそも対人行為だろうと対人的目的など、ないことがほとんどなのだ。
各々がそれぞれの思いで動き、自分という檻の中でじたばたしている。
時々そこから出て他人に関わろうとする。だけど、近づきたくて出ていったはずでも、激しい不都合や葛藤が起きればさっさと自分の檻に戻ってしまう。

自分の価値を他人の眼の中にゆだねていてはいつもそんな時に自己崩壊が起きる。
取り残されるたびに激しい無価値観にさいなまれなければならない。
そうならないためには、自分が自分の真の味方であること。
自分の批評家であったり、警察であったり、処刑人であったりしてはいけないのだと。





他人は裏切るもの、が前提…か。
確かに。
それは私も感じたこと、そして、裏切られたと思った当のその人々も多分、私に感じていることなんだろう。

どちらが先に裏切ったのかなんて、拘っても仕方ないことなんだろう。

やっぱり、土曜日は良い日だったんだと思う。
車の前を横切る黒猫を轢かずにすんだし、どこにも、誰にも頼らず、その日だけでも一人で風を感じながら動けた。

こうやって少しずつ成功体験を積み重ねていけば、行きつ戻りつしながら漕ぎ出しいけるんでないかしら。

ただし困ったことには、今のところ、どうやったらいいのか、全くわからないのだけど。

鏡の中の自分に、もう少しだけ、時々はいじわるでない目を向けられるように。。
といいながら、その言葉にすごく反発を覚える、飼いならされた自分もいる。

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